吉田秋生「バナナフィッシュ」-オーサーのアッシュへの熱烈な、「ライバルの片思い」-
漫画家・江口寿史氏が鴨川つばめ「マカロニほうれん荘」を評して
「僕ほど『マカロニほうれん荘』を憎み、そして愛した人間はいないと思います」
とツイしてて思い出したのが映画版「アマデウス」だった。
ああここにもサリエリがいたか、と思ったが、おそらくクリエイティブな業界には至るところにサリエリがいるのだろう。
天才をこよなく愛し、そして憎むサリエリが。
アニメ「バナナフィッシュ」6話の考察として「アマデウス症候群」に言及しているサイトがあったが、「アマデウス」という戯曲の方を元ネタとして考察されていた。
https://animedeeply.com/shiokawa/bananafish/18115/
吉田秋生氏が作中に引用した「アマデウス」は時期的に考えてもおそらく映画版のほう。
できれば映画版を見たうえで考察をしていただきたかった。
映画は戯曲を元に制作されたが、戯曲と映画では「モーツァルトとサリエリ」の関係性の解釈が違う。
ほどほどの才能を持った音楽家・サリエリが天才モーツァルトに嫉妬し、モーツァルトを破滅させようと画策する所までは戯曲も映画も同じだが、
戯曲の方は「あんな下品で粗野な男に素晴らしい才能が宿っているのが許せん。それが神が与えたもうた才能ならば私は神に逆らう」とサリエリが表面上は友人のふりをしながらモーツァルトを破滅へといざなう話。
映画のほうは「自分が世界を敵に回しても欲しいと思っていた才能を持つモーツァルト」を、サリエリが誰よりも愛し、憎む話だ。
何よりも戯曲と違うのは映画版はサリエリこそがモーツァルトの才能の一番の理解者であること。サリエリほどモーツァルトの才能を評価している人物は他にいないのだ。
モーツァルトは生前そこまで高く評価されていたわけではない。あまりにも才能が突出しすぎていて先を行き過ぎて、正当な評価をされていなかった。同業者間での評価は高かったようだが当時の一般大衆には支持されず、彼の作品が評価されるようになったのは没後しばらくたってから。
先ほど、サリエリを「ほどほどの才能を持った音楽家」と書いたが、サリエリは実はウィーンの宮廷楽長まで務めた人物。当時の楽師としてトップクラスの人物である。だが、サリエリが本当に欲しかったのは「神の器の才能」で、サリエリが実際に持っていた才能とは「正当に評価されない神の器モーツァルトの才能を理解する才能」だった。誰よりもモーツァルトの才能を認め、理解し、愛していたのは外ならぬサリエリだろう。モーツァルトの家に忍び込み、モーツァルト直筆の未完の楽譜を見た時のサリエリは宝物を手にした子供のようだった。だが、だからこそ人一倍モーツァルトを憎んでいたのもサリエリなのだが。
「アマデウス(モーツァルト)」という稀有の才能を前にしたサリエリの嫉妬と羨望と愛憎は映画を見ないと伝わらない。
未見の方にはぜひ映画版をおすすめしたい。
ほんとに、上記のアニメサイトの考察では全然伝わってこないんだよ、吉田秋生がなぜ「アマデウス症候群」という言葉まで作って、絶対的な才能に対する愛憎を「アマデウス」に例えたのかが。
「バナナフィッシュ」作中では伊部俊一と奥村英二の関係性が「アマデウス症候群」と例えられていたが、持てる者と持たざる者の対比という意味ではフレデリック・オーサーとアッシュ・リンクスの関係性が一番「アマデウス」に近い。
オーサーは決して凡庸なチンピラ・小者ではない。アッシュに指を傷つけられて拳銃を握れないという致命的なハンデがあるのにストリート・キッズのボスにまで上り詰めた人物である。
オーサーの経歴について作中で詳しく語られていないが、アッシュが頭角を現す前に既にボスだったので、ストリート・キッズ界では「アマデウス」でいうところの宮廷楽長サリエリと同じくらいのポジションだったと思われる。人の上に立つ能力・人をまとめる能力も高く、体力も知能もかなり高い。あれだけ「卑怯」「残忍」を晒しても、まだついてくる人間がたくさんいる事から考えても人望も高い。というか「卑怯」や「残忍」はギャング界隈ではむしろ武器になる。卑怯や残忍を武器にしないほうがギャング界隈のボスとしてむしろ特殊かも(バナナフィッシュにはその特殊なボスが何人もいるけど)。
ディノ・ゴルツィネが大統領主席補佐官にオーサーを幹部候補生として紹介している所から考えても、かなり有能であると考えられる。
オーサーにはアッシュにない残忍さと権力志向、強い上昇志向がある。そうやって「上に昇り詰めていき、闇の世界で頂点をとる」がオーサーの目指すところだったのだろう。アッシュが現れるまでは。
オーサーがなぜあれほど激しくアッシュを憎んでいるかというと、オーサーが「世界を敵に回してでも欲している才能」をアッシュが持っているから。
そして、そのオーサーが欲しくてたまらない才能をアッシュは「決して欲しいとは望んでない」からだ。
アッシュがその才能を誇るような人物だったら。それでもオーサーから見たら憎いことは憎いだろうが、あそこまで強くは憎まなかったような気がする。
そしてオーサーは誰よりもアッシュの才覚を察知する能力に長けていた。アッシュの才能の一番の理解者だった。これもまた「アマデウス」のサリエリの才能であり、不幸。
この「アマデウス症候群」の最も辛い所は「モーツァルト(アッシュ)はサリエリ(オーサー)を無視できるのにサリエリはモーツァルトを無視できない」ことなんである。モーツァルトはサリエリを歯牙にもかけていなかった。もしもモーツァルトが少しでもサリエリを音楽家として認めていたら結果は違っていたように思う。
「バナナフィッシュ」においては、アッシュはオーサーの能力を実はちゃんと評価している。オーサーとの直接対決にあたって死を覚悟しているということはそういう事だ。だが、アッシュにとってオーサーが欲している才能も、闇の世界で頂点に立つことも全く「どうでもいい」ことなので、オーサーがライバル心をむき出しにしても「どうでもいい」。
オーサーはずっとアッシュを意識し続け、四六時中アッシュより上に立つことを考えているが、アッシュはたぶんそこまでオーサーの事を考えてないだろう。「どうでもいい」から。
これはオーサーのアッシュへの熱烈な片思いなのだと思う。恋愛ではない「片思い」。ライバルの片思い。ライバルってお互いが意識しあわなければライバルになれないのだから。
「友情にも片思いはある」が、「ライバルにも片思いがある」のだ。
ずっと、アッシュに認めてもらいたかったのだろうなあ。
自分がアッシュを意識してるのと同じくらい、アッシュに意識してもらえたらオーサーはとても嬉しかったのではないかなあ。
アッシュはオーサーを無視できるが、オーサーはアッシュを無視できない。だから余計オーサーの憎悪が深まる。
地下鉄で対峙した時、アッシュは初めてオーサーをファーストネームで呼ぶ。
あの時やっとオーサーは本当の意味でアッシュの視界に入ったわけで、胸がつまる。