漫画の話をしましょうか

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内田樹「街場のマンガ論」-リベラル男は自分のマッチョに無自覚だから自覚的にやってる奴より却ってタチが悪い-

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「人の意見には耳を貸さない」を、ここまで屁理屈をこねて正当化を図るのはさすが学者先生だと思いました。
てか「こいつには何言っても無駄」と思わせるのが論争における無敵のひとだと身をもって実践されるとはお見事です。

 

つまりこの方には何を言っても無駄。

ということで、遠慮なく言わせていただくことにします。

 

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内田樹「街場のマンガ論」

 

インテリ親父の語る「少女漫画論」ほど腹が立つものはない。
大概とんでもなく的外れな上に「少女漫画にも造詣が深い、封建的でマッチョな普通の男とは一線を画すリベラルな僕」つーナルシシズム満載だから。


この本、すんげ事実誤認(つか、無知)多いんですよ。もう目を覆いたくなるほど。

 

●「オタクは歴史を好まない」
「オタクは彼ら自身がどのような歴史的文脈の中から生まれてきたものか、おのれの出自について、その非規定性について語るのを好まない」(p105)


んなわけねえだろ。ちまたに出回る「オタク論(オタクの出自について)を語るオタク」が目に入ってねえのかよ。90年代に岡田斗司夫本田透あたりがさんざん書き散らしてたじゃねえかよ。読んだこともねえのかよ。
で、内田センセイは更に自信を持ってこう仰るのだが。「オタクの前史はSF。この歴史的事実を当今のオタクたちは知らず、ある日突然オタクという新人種が地表に登場したという天孫降臨神話を愛している」「オタクの前史について語る人がほとんどいないので、備忘のためにここに記す」。
あのー「オタク前史がSF」って、それ常識なのでは。「語る人がほとんどいない」って、アンタ、何言ってんすか。

とり・みきが80年代に「愛のさかあがり」でSF大会のこと描いてたし、アニメ制作会社ガイナックスの前身がDAICON FILMで、1981年の日本SF大会DAICON 3」のオープニングアニメーションから派生したものであるって話は有名すぎるくらい有名だと思うんですが。

 

●「日本の戦後マンガのヒーローものの説話的定型は生来ひ弱な少年が、もののはずみで恐るべき破壊力をもったモビルスーツ状のメカの操縦を委ねられ、無垢な魂を持った少年だけが操作できるこの破壊装置の善用によって、とりあえず極東の一部に地域限定的な平和をもたらしている、というものである」(p161)


それ定型じゃねえから。内田脳では「戦後少年漫画のヒーローもの=巨大ロボ」しかないらしいが、それはあくまでも一部であって「ヒーローもの少年マンガ」の全体像ではありません。

 

●「女性で少年漫画を描く人は少ない」(p235)


高橋留美子は少年漫画、という話題から出てきた言葉。
んなわけねえよ。
荒川弘は?さとうふみやは?田辺イエロウは?樋口大輔は?久保ミツロウは?みさき速は?
アンタが知らないだけ。

 

●「少年マンガと少女マンガを両方読む人ってなかなかいない」(p239)


んなわけねえよ。いっぱいいる。アンタが知らないだけ。

 

ざっと挙げただけでもこんだけ。
本気で探せばもっとある。
息切れがしてきた。
このひとの本業はレヴィナスだのデリダだのフーコーだのフッサールだのハイデガーだのラカンだのについて研究して、あれこれ屁理屈述べること。
なんでこう畑違いの分野にいちいち口を出したがるかなー。
しかも著書の前書きや後書きで、「私は専門家じゃないから事実誤認があっても“ああ、そうですか”というだけ」と予防線を張る(「街場の中国論」という本にマジでそう書いてあったぞ)。ようは専門分野じゃない本をいい加減な知識で書くことに対して、「私は専門家じゃありませんから、間違えてても大目に見てネ!テヘ☆」と逃げ道をあらかじめ確保してるわけですね。

極論を断定的に書くのはまぁ仕方がない。本売らなきゃいけないんだから。でもさ、事実誤認は勘弁してくれって思うわけよ。シロートのブログならともかく、プロのモノカキでしょ。もう本当に事実誤認が多すぎてイラつく。
他の著作のことは事実誤認を指摘できるほど博覧強記じゃないので何も言わん。
が、マンガに関しては言わせてもらう。
アンタの書いてること、殆ど事実誤認だから。つか、単に無知。
畑違いの分野に口を出しても別にいいが、本にする前にちゃんと事実関係について調べろよ。
その程度の手間をはぶいて「専門外なのでわかりませ~ん」「ブログに書いたことの再録本なのでテキトーな内容で~す」とか逃げ道作ってんじゃねえよ。
「おやじのヨタ話」感覚で内田樹の「街場の○○論」を読むんなら別に構わないが、内田樹って異常に知名度高いし信者多いし変に影響力あるから、ある意味タチ悪いんだよ。

 

どうもご本人によると、「専門分野でない人間のほうが、斬新な発想ができる」って考えから「街場の○○論」を執筆されてるご様子。
確かに、専門分野の人間って既成概念にとらわれて斬新な発想ができないということはあるんですよ。で、何の予備知識もないズブの素人の言ったことが鋭く正鵠を射たりするということは、確かにあり得ます。
ただね~「予備知識のない、専門分野外の素人の人間だったら誰でも斬新な発想ができる」ってもんじゃないんです。
それってすごく才能が必要なんですよ。才能というか、天性のセンス。お笑い芸人とかにそういうセンスがある人多いんですけど。
「知の蓄積」はなくても、おっそろしく頭の回転が速くて勘がいい人ね。
出版業界だったらそのセンスを持っているのは、ずばり西原理恵子
内田樹にはその才能はない。内田センセイは「知の蓄積」でガチガチに固めたところからでないとモノが言えない人なんです。学者だから。
「知の蓄積」がゼロの分野で天性のセンスやカンの良さを発揮できるタイプではないです。
というわけで、内田センセイは自己認識が間違っているんです。

 

 

 

事実誤認だけでなく、少女漫画論とBL論の酷さはもう目を覆うばかり。

「少女漫画には口に出していった言葉・心の中で思った言葉以外に、もうひとつ発話水準がある。それは“心の中には存在するが、そのことに本人さえ気づいていない言葉”である」(p78)
この説を検証するために内田センセイが例に挙げた作品が佐々木倫子の「Heaven?」。
…。
あのさ、それ少女漫画じゃねえから。
「女性漫画家が描いた青年マンガ」だから。
内田センセイによれば「伊賀くんには彼自身も気づいていないオーナーに対するエロティックな関心(口には出されない思い)があり、それが佐々木倫子の手書き文字に現れているそうな。
「Heaven?」は実は「濃密なラブストーリー」であることが「語りのレベル」を感知できる読者にだけ感知できるよう構造化されている」んだってさ。
はあ、そうすか。
わたし感知できませんが。
もうね、この人が何をもって「少女漫画」を定義してるのかまったく分からないのですよ。
「Heaven?」が青年誌に発表されたことを承知の上で、あえて「あれは少女漫画である」と定義してるのならその根拠を示していただきたい。一体何をもって「少女漫画」としてるのか。
少女漫画の定義については別の章で「少女漫画とは女性のビルドゥイングスロマンであり、少女漫画の究極の目的は少女が最終的に到達すべき理想の女性のロールモデルの提示」(p84ーp89)
と一応説明されてますがね。「Heaven?」が少女漫画であるという根拠にはなんないやね。こんな説明。

それと、「少女漫画の究極の目的は少女が最終的に到達すべき理想の女性のロールモデルの提示」…だと…?そんな目的で少女漫画を読んでる女を私は1人も知らない。

 

それと内田センセーはくらもちふさこの「天然コケッコー」読んで、登場人物の少女には感情移入できたが、男性登場人物には感情移入ができなかった。理由は私が「少女」だからだ、と書いていて本を投げつけたくなった。
内田センセーの本質が「少女」だから「少女漫画リテラシー(少女漫画を読み解く能力)」も備えているし、「競馬・パチンコ・キャバクラなどの普通の男が好むことも好まない」んだってさ。
「少女漫画まで理解できるワタシは普通の男とは違う」という自意識の発露が死ぬほど気持ち悪いんですが。それなんて中二病
ていうか競馬・ゴルフ・パチンコ・キャバクラに興味ないのは「少女だから」じゃなくて「文系あたまでっかち男子」の典型例だろ。

内田センセーは「男の子の遊び」の輪に入れない少年時代を過ごした人らしい(と著書に書いてあった)ので。「ホモソーシャル社会から脱落した自分への補償として少女幻想的なものに擦り寄った」で、たぶん正解。「ホモソーシャル社会からの脱落」そのものは悪いとは思わない。私も、自分が今の性格のままで男に生まれてたらたぶんホモソーシャル社会からの脱落者だろうと予想できるので、そういう意味での親近感はある。ただ、だからって「自称名誉少女」はいかがなものかと。私が感じる不快感の正体は「ホモソーシャル社会からの脱落」じゃなくて「自称名誉少女」と言ってのける自意識のあり方ですね。

すりよってくんなよ「少女」の領域に。

 


なお、「BL論」では「BL=反米ナショナリズムである」という珍説を展開。
その根拠は「少女漫画はアメリカを描かないから」。というもの。
少女漫画に少年愛が登場したのは1970年代半ば。それは全共闘運動の終焉と一致する時代であり、反米ナショナリズムの戦いの松明を全共闘運動から受け継いだのが少年愛マンガである、だって少女漫画はヨーロッパは描いてもアメリカを描かない(=反米)じゃない、と。
ハイ、ここで内田センセイは「BL」と「少年愛がテーマの少女マンガ」の区別がついていないことが判明しました。
つまり根本的に何も分かってないし、おそらくBLを一冊も読んだことがないだろう。
そもそも「少女漫画はアメリカを描かない」って前提から間違ってる。
「少女漫画はアメリカを描かない」「バナナフィッシュとキャンディキャンディを例外としてアメリカを舞台にした少女漫画はほとんど存在しない」(p130)
んなわけねえだろ。
エイリアン通り」「サイファ」「月の子」「パッション・パレード」「ニューヨーク・ニューヨーク」「Sons」…。白泉社に限定しただけでもこんだけある。ざっと挙げただけなので探せばたぶんもっと沢山ある。「白泉社の少女マンガは元妻にたくさん読まされた」ってこの本に書いてあったけど、オマエ今まで何読んできたんだよ。
白泉社以外でも、アメリカが舞台の少女漫画なんか腐るほどある。アンタが知らないだけ。


あとね、これ声を大にして言いたいんだけど、24年組萩尾望都大島弓子竹宮恵子などに代表される70年代の革新的少女漫画家たちね)と白泉社系と超メジャー作品(ガラ仮面・エースをねらえ・のだめ・キャンディキャンディ等)くらいしか読んでないのに「少女漫画とは○○である」って語らないでほしい。頼むから。
これは内田樹に限らず、インテリ知識人男性全てにいえることなんだけど。

「青年誌に掲載されるか、世間的に大ヒットを飛ばすか」しないと、男って少女漫画を認識しないんですよ。一般的に。
つまり「男でもとっつきやすい少女漫画」「男でも読める少女漫画」だけが男にとっての「評価できる少女漫画」なの。(一般論の「男」ね。もちろん例外もあるけど少数)
ようは「少女漫画」全般というものをものすごく低く見てるってこと。
「男でも読める少女漫画=すばらしい作品」って思ってるあたりに出るんだよね、無自覚な少女漫画蔑視が。だからしたり顔で少女漫画論を語るインテリ知識人男性は萩尾望都大島弓子(男でも読める名作少女漫画)は読んでも、吉田まゆみ上原きみこ一条ゆかりは読まない。名香智子清水玲子も読まない。ましてや新條まゆ北川みゆきすぎ恵美子なんてまず読まない。 当然のことながら咲坂伊緒椎名軽穂等も読まない。
「少女漫画論」をインテリ知識人男性が語っても、言及の対象は24年組白泉社系・超ヒットした有名作品がせいぜい。吉田まゆみに言及してる「インテリ知識人男性の少女漫画論」なんて見たこともない。
漫画界にもカーストはあって、少女漫画は男目線だと結構カーストの下位なんだけど、「知識人の語る少女漫画」にもカーストがあって(このカーストのトップは24年組などのブンガクやテツガクの匂いがするもの)、エンタメ系(普通の恋愛モノ)は不当に差別されてる、つーか無視されてるんだよねー。
個人的好き嫌いとは別に、全ての少女漫画は少女漫画論を語る上での資料的価値という意味で等価なのにね。


わたしね、インテリ知識人男性の「少女漫画のようなオンナコドモの文化にさえ理解を示す、石原慎太郎のような男根主義者とは違うリベラルな僕」アピールが心っ底嫌いです。
そういう人に限って「男でもとっつきやすい少女漫画」しか読んでない。で、男でもとっつきやすい少女漫画だけが傑作だと思ってる。根っこは変わんないよ、石原慎太郎と。「男が認めるものにだけ価値がある」と思ってるんだから。
自分のことリベラルだと自称してる男の中にもマッチョな部分は確実にある。
リベラル男は自分のマッチョに無自覚だから、自覚的にやってる奴より却ってタチが悪い。
だったら元都知事のように「オンナコドモの文化なんかこの俺様が理解できるかあっ」とマッチョイズムむんむんで拒絶してくれたほうがまだマシ。
わかりやすいから。